~フレディマーキュリーの故郷ザンジバル(タンザニア)では、車の解体修理や家の建設工事まで自らDIYで行うのが当たり前だった~
私が仕事で アフリカ タンザニアのザンジバルに派遣されていた時、フレディマーキュリーの店にずいぶん通いました。
え!
ザンジバルに行ったことがあるんですか?
うん。
目的は仕事で行ったので、プロジェクトの期間に家も借りて、「住んでた」って感じだったな…。
今回は、そこで学んだ「生きていく手段=DIY」の話だよ。
フレディマーキュリーが ザンジバル生まれであることは、映画「ボヘミアンラプソディ」にも出てくるので、皆さんご存じだと思います。
彼の店は金曜日になると、ヨーロッパからの観光客でいっぱいになります。
店内にフレディマーキュリーの衣装が額に入れて展示してあって、船便で到着したヨーロッパからの観光客は船着き場から直行していました。
私は、どでかいピザを週に2回は食べに行っていたのですが、それよりも強く印象に残っているのは、店の外の悪臭でした…。
その店は船着き場の横にあるので、バルコニーの下では地元の漁業船のメンテナンスを頻繁にやっていて、木造船の木の隙間に魚の油を浸み込ませた布を打ち込むのですが、それが醸し出す悪臭がキツい…。
仕事の派遣期間は6か月の予定だったのですが、管理職は現地の仕事の道筋を作ったら2か月で帰国するように指示が出たので、そんなに長期間ザンジバルに居たわけではないのですが、そこで印象に残ったことをお話しします。
行きは遠かったけど帰りは近かったザンジバル
ザンジバルまでは、当時は途中のドバイまでの直行便が関西国際空港からしか出ていなかったので、まずは羽田から関空へ飛びました。
関空からは、憧れのエミレーツ航空で一生に一度しかないであろうビジネスクラスに搭乗したのですが、椅子が真横になるので、とにかく楽でしたね。
飛行時間は、ドバイまで11時間くらい…。
行程の途中では、ヒマラヤ山脈の上を飛ぶので「あ~、これから未知の所に行くんだなぁ~。」と思ったのを覚えています。
ドバイからは、別便のエミレーツ航空に乗り換えて タンザニアの首都のダルエスサラームまで さらに6時間。
ただし、ドバイでトランジットの時間が6時間も空いたので、行きはすごく遠く感じました。
ダルエスサラームからザンジバルまでは、小さなプロペラ機で30分くらい。
文化や土地柄について
意外と知られていないのですが、タンザニアという国は、内陸のタンガニーカとザンジバルの2つの政府で構成されています。
ザンジバルの中心はウングシヤ島で、隣にペンバ島があり、これもザンジバル政府下にあります。
宗教は8割がイスラム教徒、2割がキリスト教徒の社会主義国で、言語はスワヒリ語ですが、中学校教育を受けている人は英語も話します。
イスラム教徒は、1日に5回だったと思いますが、お祈りの時間があるので、地域の所々にあるモスクの大音響スピーカーから、「アッラ~」という召集の声が朝5時から聞こえてきて、目覚まし時計は必要ありません(笑)。
このモスクは、もちろんお祈りをする場所なのですが、むしろ、説教を話すリーダーが様々な情報を話す場でもあり、国策のプロパガンダの場にもなっているわけです。
私は、到着してから1週間くらいは、世界文化遺産で有名なストーンタウンの地味なホテルに滞在していたのですが、その周辺に住む中堅所得層の住民は、中国、ヨーロッパから運んできた中古のテレビや電化製品を持っていました。
そもそも、食料品以外は新品を売っている店は殆どありません。
衣服もリサイクルです。
住民は、テレビがなくても、ラジオは持っていました。
このため、社会主義の弊害にならない限り、様々な情報は発信されていて、意外と世界情勢は伝わっていました。
イスラム教の戒律の影響なのか、彼らは一種の道徳観を持っていて、私がニューヨークに行った時の印象よりも、精神的な健全性のようなものを感じました。
ちなみに、イスラム教というと、一夫多妻制が私たちに違和感を与えるのですが、派遣先のスタッフの説明によると、ザンジバルの場合は妻は4人までで、その「4」という数字は、女性の人口が男子の4倍あるからなのだそうです。
男の子の死亡率が高く、配偶者のバランスをとっているので、今後、先進国の支援で医療が発達したら、一夫多妻ではなくなるかもしれないということでした。
彼らは日本の位置は知りませんでしたが、「日本は素晴らしい国だ。」と繰り返します。
風景で言ったらザンジバルは楽園なんですけどねぇ…。
そして、現地の若者から、よく質問されたのは「日本人は、なぜ宗教を持たないのか?」ということでした。
わたしはすぐに「宗教観は、いつの間にか戦争のプロパガンダに利用されてしまう。日本人はそれを体験しているから…。湾岸戦争もそうだったのではないか?」と答えると、「あれはサダムが悪い。」と言った後、みんなで考え込んでいました。
仕事で派遣されている以上、現地の人とイデオロギーや宗教について語ってはいけないのですが、私からは精いっぱいのメッセージでした。
彼らの性格は、西洋人に比べて地味な感じなんですが、ナイーブで、朝に挨拶をしそびれると仕事の指示をしても一日中へそを曲げて、言うことを聞いてくれません。
とても傷つき易くて、純粋なんです…。
食事などはどうだったか?
ザンジバルは東アフリカに位置し、インド洋の島ですから、インド文化の影響も受けているようです。
彼らの主食は米やパンではなくて、キャッサバや穀類を混ぜた粉のようなものを持ち歩いているところをよく見かけました。
水を加えて餅のつきたてのようにして食べています。
これを焼けば「ナン」に近いですね。
後で知ったのですが、「ウガリ」という名前なんだそうです。
彼らの料理には、一つ一つに宗教的な意味がありますが、難解なのでここでは割愛します。
菜っ葉のお浸し(日本のものと変わりません)、茹で芋(キャッサバ:繊維のあるジャガイモの感じ)、オムレツ(卵の黄身は白っぽいです)、タコの甘醤油炒め、カレーライス(curryは元々スープなので、辛いスープと長いインディカ米)という感じなので、日本人には馴染みのあるものが多いです。
一番旨かったのは「チキンスープ」。
一皿に鶏のもも肉が丸ごと入っていて、いい出汁が出ているんです。
そういえば、現地の人に「鶏はなんて鳴くのか?」と聞くと「コケコッコー!」って答えが返ってきたので、日本語だけの表現だと思っていたのに意外でした。
他にもスワヒリ語と日本語の似た発音があって、「ジャンボ」(ごきげんよう)、「サファリ」(遠路お疲れ様→ポーレ・ナ・サファリ)の他に、昔 鉄道があった発着場跡は その音から 地名を「ブブブ」と言うし、コウモリを「ポッポー」(日本語では鳩ですが…。)
他にも「ハパ」(here:ここ)等々、日本人には赤ちゃん言葉で馴染みのある繰返し発音が多いので、スワヒリ語を語源としたアジア伝来があったのではないか?と思わせます。
車の修理はDIYが当たり前
ザンジバルでは、タクシー運転手がサラリーマン収入のトップのようです。
英語が話せないといけませんが、観光収入が主な産業なので、ヨーロッパからの観光客のチップが、タンザニアシリングに換算すると大変な収入なんです。
私の契約運転手は、通訳から借家の不動産屋交渉までやってくれたり、休日の送り迎えもやってくれましたので、当然、日当やチップを私の自腹で渡すのですが、少ないと思いつつ、為替の6~7千円相当を渡すと、人目を避けるかのようにポケットに入れるんです。
後で大使館の人に聞いたら、私が渡したお金は、現地の平均所得の2か月分労働に匹敵する価値があったそうです。
どおりで その運転手の自宅に連れていかれた時、ペルシャ絨毯とペルシャ椅子が置いてある立派な家だったわけです…。
私たち日本人スタッフは、金銭価値がおかしくなってきました…。
現地の人たちに、どんな車が好きか聞くとみんな「ホンダ!」と言います。
F1の印象が強いそうです。
…だけれども、彼らの車は日本で使わなくなった廃車・中古車をあたり前のように使っていますので、修理が必要な頻度も増えています。
トヨタやスズキの部品はドバイ経由で手に入りやすく、人気なのはトヨタのセダンかスズキジムニーでした。
たしかに、島内では、そのどちらかが走っています。
乗り合いバスも日本の廃車を使っていましたが、京急バスの上大岡行き、江ノ電バスは藤沢駅行き、日本の幼稚園の名称と漫画が描いてあるマイクロバス、消防車は千葉県の市原消防署のロゴが貼ったままの状態で走っていたのには驚きました。
その方がカッコイイのだそうです。
私も素人には珍しく車の板金塗装はやったことがあります。
が、彼らは個人で修理工場にある「うま」(ジャッキスタンド、リッジドラック)まで持っているんです。
なんと、彼らはたとえ駆動系であっても、車の下にもぐって自分で修理をやっちゃうのです!
日本では、安全を考えると、資格を持っていない限り、DIYの範囲を超えています。
ザンジバルでは飛行機で6時間以上離れたドバイに 部品を注文して 島で1か月以上も待っているんです。
それは、内陸にあるタンガニーカ政府との間には関税があって 積み荷が足止めを食らうからです。
待ちに待った部品が来ると、整備士教育を受けたわけでもないのに、自分で修理しちゃうんですよね…。
安全性の問題があるのに 規制はなく、ちゃんと走っているのには驚きました。
彼らに「DIY」という趣味的な言葉はなく、私がそれまで使っていたDIYの意味の領域を遥かに超えて、「必然性」「生きるための手段」というものがあったのです。
家も自分で作る
ザンジバルは、沖縄本島と同じくらいの大きさの島です。
私は、任期の途中から一軒家を借りたのですが、その理由は、ストーンタウンやパジェのホテルを数か月か借りる場合、交渉すれば一泊料金をディスカウント出来るので、たくさんのホテルで交渉したのですが、思ったより下がらなかったのです。
このため、契約運転手にスワヒリ語の通訳をお願いして、地元の不動産屋さんに物件候補を紹介してもらったところ、ホテルより はるかに安かったので借りることにしたのです。
空港そばの別荘地でしたが、家は業者施工のコンクリート造りで、平屋なのに4LDK、ひと部屋が約12畳もあって、セミダブルのベットを置いても なおスペースに余裕がありました。
敷地が2500㎡位あるので、鉄の城門と24時間監視の警備員付きです。
確か北欧あたりの国の人の別荘だったように記憶しています。
この家を 先日、Google Earthで検索拡大したら、周辺を含め当時のままでした。
世界文化遺産でもあるストーンタウンがザンジバルの中心街ですが、その建物は植民地時代にヨーロッパの列強が建てたものです。
そこから車で離れると、島の向こう側にあるパジェというヨーロッパ資本のリゾートホテル街道と、私の住む空港近くの別荘地があって、それ以外は、ほとんどが林に囲まれた農村です。
ザンジバルは、サンゴ礁で出来た島ですから、平坦な土地で、養分を含んだ黒土の土壌がなく、野菜は貴重品で店頭にもほとんど並んでいません。
農産物はスパイスとコーヒー豆です。
スパイスはインドに輸出されてカレーに使われることで有名ですね。
また、ザンジバルコーヒーも有名です。
栽培農家は、石積に石灰質の土を練りこんで、2LDK程度の住居を自分で造ります。
自らの住居をDIYするなんて憧れるなぁと言いたくなりますが、先ほど述べたように、彼らにとってはDIYなどという趣味の領域を遥かに超えた「必然性」の領域にあるわけです。
彼らにとって生き抜くことそのものなのです。
現在、私が物を買う時、中古というものに何ら抵抗感がないのは、ザンジバルの体験があったからかもしれません。
私のDIYに関しても、単なる「趣味」というだけの感覚ではないのは、この頃の強い影響があるからだと思います。
(2021.5.19 写真等全面更新)
まとめ
ザンジバルの人は、車の整備士教育を受けていなくても、重要な駆動系の部品をドバイ経由で取り寄せて、自分で修理しちゃうんです。
有名なスパイスやコーヒーの栽培農家は、石積に石灰質の土を練りこんで、2LDK程度の住居を自分で作っています。
・彼らに「DIY」という趣味的な言葉はなく、私がそれまで考えていたDIYの領域を遥かに超えていました。
・自ら製作や修理をすることは、彼らにとって生き抜くための必然そのものなのです。
・現在、私が物を買う時、中古というものに何ら抵抗感がないのは、ザンジバルの体験があったからかもしれません。
・私の言うDIYが、ただ趣味というだけの感覚ではなくなってきたのは、この頃の強い影響があるからだと思います。